外科医・平岩正樹 読む抗ガン剤 拡張版

拡張版 第3話 【高速増殖癌の治療法】

  「病弱な人達はだらしない」

 病気一つしたことがなかった田中照一さん(63歳)は、そう長年思っていた。それほど自分の健康には絶対の自信があった。

 2001年11月、そんな田中さんには珍しく、咳が続いた。近くの医院でX線写真を撮ると、右肺に影がある。12月、紹介された大学病院でCT検査を受けると、肺癌だった。組織検査で小細胞肺癌と診断された。小細胞肺癌は肺癌の1、2割を占める。大学病院の医者は、田中さんにエトポシドという抗癌剤を中心にした治療を勧めた。田中さんはためらった。「抗癌剤」と聞いてゾッとしたのだ。

 1月19日、田中さんが友人を介して私にセカンドオピニオンを求めてきた。私は、
  「エトポシトが小細胞肺癌の標準治療薬だったのは、昔の話です。今ではイリノテカンが標準です。今年1月の『ニューイングランド医学誌』にも、エトポシドとイリノテカンの治療成績を数年にわたって比較した大規模な臨床実験の結果が載っています。あまりに両者の差が大きくて、途中で実験が打ち切られたほどです」

 と説明した。しかし、田中さんが知りたかったのはそんなことではなかった。どうしても抗癌剤治療を受けないといけないのか。田中さんは訊ねた。
  「治療しないと、あとどれくらいでしょうか」
 私は、田中さんが持参した12月と1月のX線写真を比較して、計算した。
  「5週間で約40%大きくなっています。これは長さですから3乗すると、体積は3倍弱になっています。倍になる速さは、およそ3週間です」

 小細胞肺癌は“高速増殖癌”だ。田中さんは、癌の正体を知って絶句した。
  「治療は急いだ方が良いでしょう。イリノテカンを使ってくれる病院はたくさんあります」
 と私は言ったが、田中さんはどうやって患者をすればよいのかもわからない。無理もない。癌なんて自分とは無縁と思っていた。でも「癌にならない」信念が当たる確率は、誰しも5割しかない。



高速増殖癌

 3日後の1月22日、田中さんから電話が入った。前の日から息が苦しくなってきたと言う。病院はまだ探してないらしい。時間がない。やむを得ず私が治療することになった。緊急入院である。

 歩くこともままならなくなった田中さんは、初めて死を意識した。酸素を吸い始めたのに息が苦しくて、トイレでお尻を拭く時も顔を洗う時も我慢できないほど辛い。おまけに固形物がのどを通らない。流動物しか入らなくなった。食道や気管を取り囲む癌の転移リンパ節が、急速に大きくなっている。

 気道閉塞を防ぐステント・チューブや点滴をすれば、救命処置にはなる。でもこの高速増殖癌には、1、2ヶ月の延命効果しか生まないだろう。急いで癌を叩くしかない。問題は三つあった。
 @ 第一選択薬のイリノテカンは、副作用死が1%ある。できるだけそれは回避したいから、私はいつもは少量投与から始めてゆっくり様子を診る。でも今はその余裕がない。抗癌剤の効果が現れるのは、普通は早くて3週間、遅ければ2ヶ月かかる。
 A 田中さんのように食が細くなっている時、イリノテカンの副作用は出やすい。
 B エトポシドなら副作用は食事に関係しない。期待の低い第二選択薬で安全策をとるか。それともイリノテカンの大量投与に賭けるか。

 考えた末、翌23日から中3日でイリノテカンを40mg、60mg、80mgと短期集中漸増していく策を田中さんに提案した。ことが起これば、治療をストップする。こんな投与法はどこにも書いてない。

 26日、田中さんは、
  「楽になってきました。抗癌剤が効いてきたみたいです」
 と言う。まだ3日前に40mgを投与したばかりである。酸素も外せない。
  「入院して、安心されたからでしょう」
 と答えたが、私にしてみれば苦しいと患者に訴えられるよりはマシだ。

 27日に2回目の60mgを投与してしばらくすると、田中さんは酸素をはずして病室を歩き回るようになった。ひょっとしてと思い、X線写真を撮った。1週間前より確かに癌が小さくなっている。私が、
  「田中さんの予想通り、効いてますね」
 と言っても、田中さんにわかるほど写真は変化していない。それより、田中さんは楽になったことが嬉しかった。

  「食事も普通に摂れます」
 31日に3回目の80mgを投与すると、私は言った。
  「退院しますか」
 今度は田中さんが驚いた。
  「大丈夫ですか」
  「病院の外を散歩している人が、入院している必要もないでしょう。2月9日に次の治療をしましょう」
 と私は言った。再び肺のX線写真を撮ると、癌は半分になっていた。今度の変化は田中さんもわかる。



人体は常にブラックボックス

 田中さんは、川崎市で喫茶店を経営している。退院翌日から仕事に復帰した。これには家族が驚いた。在宅酸素の準備をしていたのだから。

 2月9日、私は再び入院してきた田中さんに訊ねた。
  「抗癌剤は正常な細胞も傷つけて寿命を縮める、と心配しておられましたが」
  「いやあ、命拾いしました。体重も増えました。髪の毛は少し抜け始めましたが。世の中の人は、抗癌剤を誤解していますねえ」

 と、私より髪の多い田中さんは笑う。医療は結果がすべてである。全員が田中さんのように効けば、私の仕事も楽だ。反対に副作用で死亡すれば毒でしかない。

 抗癌剤を、次の三段論法で理解している人が多い。
  @ 抗癌剤は、癌細胞の分裂を障害して癌を叩く。
  A 正常細胞も分裂している。
  B だから、正常細胞も害を受ける。
 これらはすべて正しくない。

 @ 抗癌剤がどのように癌細胞の分裂を障害しているのか、まったく不明。
 A 正常な細胞と癌細胞の分裂はどこが同じでどこが異なるのか、まったく不明。
 B なぜ正常細胞は障害されにくいのか、まったく不明。

 抗癌剤に限らず、ほとんどの薬が効く理屈は仮説である。「結果」で効能を決める。理由はない。

 田中さんの治療を始めた頃、文部省は抗癌剤の副作用がなぜ人によって異なるのか、遺伝子を調べる研究計画を発表した。でもなぜ抗癌剤が効くのかさえも、まるでわかっていないのだ。

 小細胞肺癌の昔の標準治療薬エトポシドは、癌細胞のトポイソメラーゼUを阻害するという仮設がある。それに対してイリノテカンは、トポイソメラーゼTを阻害するという仮設がある。トポイソメラーゼTもUも、細胞分裂に欠かせない酵素だ。でもこの仮説だけでは、効き目の違いなんて説明できない。それにイリノテカン一つを考えても、からだの中に入ると10種以上の物質に変化する。それぞれがどこで何をしているか、誰も知らない。

 2000年使われてきた漢方薬がなぜ効くのかは数学の超難問「フェルマー予想」を解くことくらい難しい、と私は長年思っていた。そしたら「フェルマー予想」は94年に英国の数学者ワイルズが解いて、世界をあっと驚かせた。でも漢方薬の解明は、あと500年はかかるだろう。抗癌剤がなぜ効くのかも、あと100年はかかるはずだ。

 理屈を医学に求めても無駄だ。人体は常にブラックボックスで、医学は「結果」の塊である。


拡張版 第3話 【小細胞肺癌の治療】


 


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