拡張版 第1話 【膵臓癌はなぜ治療が難しいのか】
最近は健康雑誌にいろいろな病院ランキングが載る。「建物のきれいなランキング」、「病院食の美味しいランキング」などである。食事が写真入りで並んでいる。「看護婦の優しさランキング」というのもある。そして患者の満足度という活字が躍る。しかし、私の元に訪れたニューヨーク在住の山田桂子さん(61歳、仮名)は、このランキングに異論があるに違いない。
病気知らずだった山田さんは、2001年10月におなかが痛くなった。ニューヨークのクリニックで胃カメラの検査を受けたが、異常はない。
痛みがおさまらない。健康診断など受けたこともなかった山田さんもついに12月17日、CT検査を受けた。膵臓癌だった。膵臓の中央に黒っぽい小さな塊が写った。
2002年1月2日、コロンビア大学で腹腔鏡を使って調べたら、肝臓や腹膜にも小さな転移が見つかった。この時点での手術は意味がないから、抗癌剤を勧められた。長期の抗癌剤治療を受けるなら日本で、と思って山田さんは帰国し、1月10日に東京のある大学病院に入院した。
ところがである。膵臓癌の第一選択薬「ジェムザール」がこの大学病院にない。主治医にも、薬を使ったことがないと言われた。ジェムザールのない病院で、膵臓癌の治療など出来るわけがない。
病院のランキングをつくるのなら、治療ランキングが第一である。それなのに、「膵臓癌の治療薬がある病院」の一覧なんて見たこともない。どこにどんな薬が用意されているのか、実は医者も知らない。薬がすべての病院にあるわけではない。食事はジェムザールより大切という患者もいるだろうが、日本では年間約2万人が膵臓癌になる。
山田さんはいったい何のために日本に戻ってきたのか。ありふれた膵臓癌という病気の治療が、日本で受けられない。新山義昭さん(63歳)が知ったら、また怒り出すかもしれない。
安全第一の日本は承認作業が遅い
1年半前、膵臓癌の再発した新山さんが広島から私のもとにやってきた。広島のどこを探しても、ジェムザールで治療してくれる病院がなかったからだ。厚労省がこの薬を承認していなかったこともある。「安全第一」の日本は、承認作業が遅い。
2001年の正月まで生きるという第一目標が叶いそうになると、新山さんは突如署名活動を始めた。ジェムザールを承認しない政府は、生存権を侵害している。新山さんは5万人の署名を集めて、2001年2月に坂口力厚労大臣に提出したのである。その甲斐あってか2001年4月、日本でも膵臓癌にジェムザールが堂々と使えるようになった。2002年2月の今も、ジェムザールは新山さんの膵臓癌を抑え続けている。
日本の膵臓癌の治療は前進したはずなのに、山田さんは治療が受けられない。もちろん探せば、日本にも山田さんを治療してくれる病院はたくさんあるはずだ。でも膵臓癌の治療は急ぐ。病院をあちこち探すくらいなら、コロンビア大学に戻った方が早い。山田さんは、もう1ヶ月以上も無駄に過ごしている。膵臓癌は、診断がついて3ヶ月以内に患者の半数が死亡するのだ。それに癌が進行すれば、効く薬も効かなくなる。山田さんを米国に追い返すことなどできないから、私が山田さんを治療することにした。
それにしてもなぜ、こうも膵臓癌は手強いのか。放っておけば1年以内に90%が死亡する。一つの理由は、そもそも膵臓がわかりにくい臓器だからである。「東洋医学」なんて、膵臓を知らないほどだ。
東洋医学と西洋医学
医学を東洋医学と西洋医学に分けるやり方は、良い分類ではない。たとえば抗癌剤のイリノテカンやカペシタビン、オキサリプラチンなどは日本人(東洋人)が発明した薬である。東洋医学の優れた産物と誇ってよい。ところがイリノテカンは、日本より欧米で重用されている。カペシタビンやオキサリプラチンに至っては、今でも日本では販売されていない。東洋人のつくった薬を東洋人が使えない。日本人が使いたい場合は、わざわざ逆輸入しないといけない。日本人のつくったカペシタビンやオキサリプラチンが、西洋人の患者に使われている。ならば、これらは西洋医学の薬なのか。東洋とか西洋とか言っても訳がわからない。
東洋医学を「古い東洋医学」と定義すれば、もう少し話はすっきりする。「古い東洋医学」とは漢方医学のことだ。漢方の漢は漢字の漢と同じで、由来は中国が「漢」と呼ばれた時までさかのぼる。
漢方医学の用語「五臓六腑」には、膵臓がない。「漢字」にも「膵」はない。仕方なく日本人があとから「膵」という字を発明した。「膵」は和製漢字である。東洋医学の本家・中国でも、近代になってやはり膵臓はあるということになった。中国人は「○」という漢字をつくって、日本人が膵臓と呼ぶ臓器を「○臓」と呼んでいる。(〇は肉月に夷で、〇臓は「いぞう」と読む)
膵臓は後腹膜の脂肪組織の中に埋まっていて、さほど小さな臓器でもないのに見分けにくい。「東洋医学」の医者は、膵臓の存在すら気づかなかったから、癌が治るか治らないかも問題にならない。膵臓癌という病気がなかったのだ。
無理もない。手術中、若い外科医が先輩の医者に
「これが膵臓だ」
と指差されても、周囲の脂肪組織に比べてほのかに赤味がかかっている膵臓は、なかなか見分けることができない。
膵臓はみぞおちの奥にあり、右の十二指腸と左の脾臓にはさまれている。後ろには、下大静脈や腹部大動脈、左の副腎などがある。膵臓の前は胃が覆っている。こんなおなかの奥まったわかりにくい場所にあるものだから、膵臓にできる癌も診断が難しく、治療も手遅れになりやすい。
「漢方医学も気づかない隠れた臓器にできる癌だから、発見しにくく治りにくい」が今回の質問の答えになる。
でも、厳密に言えばこの答は二つの点で不十分である。
@膵臓癌にも治りやすい癌がある。
Aたとえば甲状腺や肺の癌は診断が易しいのに、極めて治りにくい種類の癌がある。
膵臓癌は、日本で年間2万人近くが発病するメジャーな癌の一つである。膵臓にできる癌が膵臓癌だが、膵臓癌は一つの病気ではない。膵臓癌の90%は膵管細胞癌で、これは確かに治りにくい。でもその他にも、たくさんの種類の膵臓癌がある。顕微鏡で見ると、それぞれは癌細胞の顔つきが違い癌の性質が異なる。
膵臓はホルモンもつくるから、インスリンをつくる細胞にできるインスリノーマという癌、ガントリンをつくる細胞のガストリノーマという癌もある。どちらも膵管細胞癌とは全く性質の違う膵臓癌だ。前に紹介したバイポーマは、医者を5000年間続けていれば出会う珍しい癌だが、これも膵臓癌の一つである。
膵臓癌の治り易さもいろいろで、たとえば粘液産生膵癌は治り易い膵臓癌の代表である。解剖学的に診断の難しい場所に膵臓があるというだけでは、膵管細胞癌が治りにくいことを説明できない。
癌はからだのほとんどの臓器にできる。たとえば甲状腺の癌の一つの甲状腺未分化癌や、肺癌の一種の小細胞肺癌は、膵管細胞癌と同じように治りくい。甲状腺癌の多くは治り易いが、数%がこの甲状腺未分化癌である。また肺癌の10〜20%を小細胞肺癌が占めている。
甲状腺は鎖骨の上の喉にあって、外から簡単に触れる臓器である。癌ができても診断は容易だ。それでも甲状腺未分化癌が治ることはまずない。膵管細胞癌よりも治りにくいくらいである。肺癌も、CTやX線で容易に診断できる。それでも小細胞肺癌は進行が速いので、ほとんどが非常に進行した状態で発見される。
膵臓癌と言ってもたくさんの病気の総称であり、そもそも「がん」がたくさんの病気の総称なのだ。がんに共通することは次の二つである。
@どんどん成長する。
A他の場所に転移して、そこでまた成長する。
この二つの共通点以外は、がんの種類によって性質も大きな違いがある。治り易い種類もあれば、成長や転移が早くて治りにくいがんもある。ではなぜ、膵管細胞癌や甲状腺未分化癌、小細胞肺癌は治りにくいのか。残念ながら、まだわかっていない。
山田さんは、
「やりたいことを、やりたいだけやって生きてきました。思い残すことはありません」
と言う。私は、
「羨ましいですね。どんな人生をおくられてきたのですか」
と聞きたいが、そんな悠長な話をしている場合ではない。
「残された時間は、私を支え続けてくれたこの夫のために生きたいと思っています。治療法はありませんか」
と、山田さんは涙で訊ねる。「なぜ」には答えられないが、「如何に膵臓癌を治療するか」には答えられる。
拡張版 第1話 【膵臓癌はなぜ治療が難しいのか】